崇高な地「御所西」で、
守り継がれるストーリー
足腰、亥年生まれに御利益があると
言われている別名「いのしし神社」。
清麻呂公においては道鏡事件で大隈国に流される道中、突然あらわれた三百頭のいのししのご守護により、それまで不自由だった足が治ったと伝えられています。この故事から「清麻呂公のお宮境内には狛犬ではなく猪像を」との京都市民の声から拝殿前に雌雄一対の猪像が建てられました。以降、護王神社は「いのしし神社」と呼ばれ親しまれています。現在、護王神社には足腰の健康を願う人からスポーツ選手まで、多数が参拝。加えていのししとの深い縁から、とくにご利益があるといわれる亥年生まれの人々もお見えになります。
当神社では一年を通じてさまざまな
行事や祭典を執り行っています。
毎年11月1日には、平安時代の宮中で行われていた年中行事「御玄猪」を再現した亥子祭を斎行。この神事は浄闇の境内に照らし出された殿上で、あたかも平安絵巻のひとこまのような優雅な趣を垣間見ることができます。このほか節分祭では本殿での祭典の後、鬼やらいや四方奉射の儀式が斎行され、豆撒式(まめまきしき)も行われます。また夏越大祓では疫病の災いから免れるよう祈りを込めて茅の輪をくぐる習しがあります。
明治初期、京都御苑の西にあたる
現在の地に社殿が造営されました。
護王神社の創設は明確ではありません。もとは高雄山神護寺の境内に平安京の建都に貢献された和気清麻呂公(以下:清麻呂公)を祀り、護法善神と呼ばれていました。江戸時代末、孝明天皇は清麻呂公に歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号の位を授与。明治7年(1874)には現在の「護王神社」と名を改められ、別格官幣社に列格されました。そして明治19年(1886)に明治天皇の勅命により、烏丸通りを挟み京都御苑の西にあたる現在の地に社殿を造営し、神護寺境内からご遷座しています。
崇高な地「御所西」で、守り継がれるストーリー
幕末の有栖川宮邸の
おもかげを今に伝えている。
国の登録有形文化財である、書院造りの主屋、烏丸通り側の青天門、下立売通側の長屋門が、幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官舎の様相を今に伝えている。太閤秀吉の「醍醐の花見」で有名な醍醐寺の孫にあたる枝垂れ桜や、造園業「植治」の十一代目小川治兵衞氏に作庭された庭園も見応えがある。
伝統文化の研究と教育の
発信拠点として活用。
現在学校法人平安女学院は、文化価値の高い有栖川旧宮邸を教育施設として保存し、日本や京都の伝統文化の教育や文化活動の拠点として活用。学生たちはこの長い歴史を刻んできた有栖館で、和に触れ、生きた文化を体感する貴重な学びの機会を享受している。また、毎年春と秋には一般公開している。
かつての宮家、有栖川宮家の邸宅として
創建された有栖館。
幕末維新期に大きな役割を果たした有栖川宮家の邸宅として創建された有栖館。明治初期には京都裁判所の仮庁舎として使用され、1891年に旧京都地方裁判所の所長宿舎の一部として現在地に移築。2008年に学校法人平安女学院が取得した。